倭の地に邪馬台国を建てるへ



 倭先住        「呉系」= 「倭+南方呉」   伊都国    呉系
 大陸からの侵攻  「狗邪系」=「鮮卑+漢」   邪馬台国  魏系

 倭は「海上民」  魏書の倭人伝は以下のように、まったくの漁労民だけの描写。 近畿大和を想像させる描写が全くないのだ。 まさに海上民としての倭の雰囲気だけである。
 この雰囲気が九州説を裏付けるものだが、倭の雰囲気から邪馬台国の位置を想定しても無理がある。

魏書の書きたかったことは?

 半島経由で「呉」の雰囲気をもつ「倭」の地に魏の勢力が及んだことを書いている。もちろんその先兵として送ったのが(鮮卑系)の卑弥呼である。魏と通じたのは卑弥呼に屈服した三十国あまりである。卑弥呼と仲が悪いという狗奴国は先住民の「呉系」
 

 加耶古代史観での分析では邪馬台国は北方から遊牧民族系「鮮卑系」が南下して倭の地に建国したものである。彼らはいわば「倭」の地に進み内陸に「邪馬台国」を作る。もともと「魏」に近い故、倭の地に建国するとすぐさま戦争中にも使いを送っている。 狗邪系と呼ぶ。

最も卑弥呼集団は倭の地をすべて」征服したわけではなく、いわゆる狗奴系、すなわち加耶古代史観での「南方呉」系は「ヤマト」の南方、東方におりまだまだ倭種が住んでいる。狗邪系と呉系の戦いはこれからだ。

 「倭」国であるゆえにこの「倭」を使うが狗邪系の新しい国名は「邪馬台国」と呼んだ。倭と邪馬台国は本来別なものと考えてよい。 倭が発展して邪馬台国になったわけでなく、大陸から異民族進出して建てた国が邪馬台国である。ここでの対立の構図は

 

狗邪と呉

古墳の形で興味を持つのは
  前方後方墳と前方後円墳である。 歴史的には前方後方墳のほうが古い。しかし前方後円墳の普及に伴い前方後方墳は消えていく。

 宮城県名取、岩沼 
すぐ近くに前方後方墳と前方後円墳が共存する。
  飯野坂  前方後方墳
  雷神山  前方後円墳
前方後方墳は東海地方を中心に分布、前方後円墳は大和近畿を中心である。
滋賀県能登川町長勝寺の神郷亀塚古墳が岐阜県西上免古墳と共に日本最古、3世紀前半かと言われる。最古の前方後円墳「箸墓」よりもずっと古い。

先住の呉系と後発の狗邪系との闘争を考えると
   呉系--前方後方墳
   狗邪系--前方後円墳
と考えている。 
また岩沼には奈良箸墓古墳のミニチュア版といえる前方後円墳「亀塚古墳」がある。
岩沼 亀塚古墳


箸墓古墳